『MITSUKO』感想・2

観てからだいぶ時間が経ってしまいました…。
5月21日(土)17時半公演の感想のつづきです。

ガラコンサートを観たときから思っていましたが、この『MITSUKO』にはもう一つの『エリザベート』という印象を受けます。
わりと似ているんだ。
1人の女性の人生を描いていること。
田舎から出てきて嫁ぎ先でいびられつつもしたたかに生き、ついには勝利を得ること。
老いては子との確執があること。

興味深いのは、エリザベートも光子も、あまり観客の共感を得るようには作られていない。

若い娘時代や嫁いでからも姑や親類と闘っているときはともかく、一定の勝利を得てからは自分勝手さや頑固さが前に出ていて、とてもじゃないが観客から愛される人物としては描かれていない。
シシィであれば子供の養育を放棄していたり息子の危機に「わからないわ」と拒否したりする。
光子であれば「息子を奪った」イダをユダヤ人として忌避する。自らも異国の人として辛酸をなめてきたというのに。

観る側としてスカッとしたり溜飲が下ったりカタルシスを得たりできるのは、断然主人公に感情移入したときのほうだ。
1幕のあいだはそれも可能。
だが2幕では大女優イダ(光子の親友でもある)が息子と恋に落ちたところからどんどん観客から離れていく。

以下、推測と妄想の域を出ないんですが――、

この話のヒロインは光子だけれど、この物語の主役はもともと光子ではない、という考え方なのだろうか、という気がしています。

まずは2幕の中心になるのがリヒャルトとイダの恋であること。
そして壮年期のリヒャルトが日本人学生の百合子に母のことなどを語って聞かせる、という形を大枠としてもっていること。

「人類愛について考えよう」「愛は国境を越えるんだ」というメッセージ性の強い舞台で、もちろんそれは観客に投げかけられているもの。
すなわち、考える主体である観客こそが主役である、という考え方なのだろうかと感じたのです。

そうであればこそ、光子に感情移入させる必要のない物語が生まれる。
物語に没入してすんなりとカタルシスを得られては意味がない。
むしろ、すこし突き放して外側から冷めた目でみられるような作りにしておいたほうがいい。

「愛は国境を越え」た光子も、晩年、息子のことでは感情に任せた行動に出る。
余裕のあるときや自分のことでは美しい人間愛をうたっても、ときと場合によってはそれとこれとは別だとばかりにまったく違った“誤った”行動をとりうる。

光子をかくも突き放すことで観客にも問いかけを投げているのではないだろうか。
そんなふうに思ったんです。

とはいえ、個人的にはメッセージ性が表に出ている作品というのはどうも好きになれないし、前の感想でも書いたとおりコンサートとしてはよくてもミュージカルとしてはイマイチだと感じたし。
とりあえずはいい作品と呼べる作りになってから、メッセージは底を流れるようにしてうまく投げかけてくれないかな、という気持ちです。

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