『近松・恋の道行』感想・7
初日・2日目にみた芝居の感想の続き。
しょせんは私ひとりの思ったことだし、また、公演を重ねた今はだいぶ違うのかもしんないです。
みりおんのおさがは、学年を考えるとうまかった。
なんせ歌えるっていいなぁ。
「ほんに罪な春雨や」のセリフが2回ある。
1回目は嘉平次とはじめて出会って恋に落ちたとき、2回目は死の道行きで。
この言い回しをちゃんと変えていたりの工夫もある。
ただ「華のなさ」なんだろうか、以前教えていただいたにも関わらず、やはり今回もみりおんの顔は覚えられなかった。
初日、しょうが湯(だったよね?)を小弁ちゃんのところに持ってきた優しい女郎さんを「これ誰だろう」と思ってみてました…。
さっき、生玉神社の境内で嘉平次と出会ってたというのに、もう忘れてる。
真ん中にいればヒロインの顔がわからなくても大丈夫ということはないのだなぁ、とはからずも知ることになりました。
まぁ、ここまで人の顔がわからないのは私だけだと思いますが……。
おさがは白く清い。
信仰心の篤い、情のある女の人。
みりおんのおさがはそれをちゃんと表現していたと思うけれど、ただ、本来の役の性格ゆえか、インパクトには欠けた。
というか、入りこみづらい。共感はしづらい。
たとえば、みーちゃんの鯉助なんかはイヤなやつだと思うけれど、弱くて卑怯で人間くさくて、どんどん感情移入してしまう。
かわいそうだと思い、また彼の姿に自分を投影してしまって、ついのめりこんでしまう。
でもおさがには、そういう感情は抱きにくいんだよね。
現実にいたらきっと素敵な人で、でも、親しくつきあうには一線を隔してしまうかもしれない。
バカ話をするにはおさがが立派すぎて、自分には不釣り合いな相手だと感じるだろう。そしてほどほどのつきあいにとどめるかもしれない。
また、白くて優しいその性格ゆえか、おさがの感情に共振もしづらい。
たとえばべーちゃんの小弁ちゃんなんかはわりと感情がわかりやすい。役の感情の浮き沈みがバーっと出て、観る側もそれを受け取りやすい。
役者の放つ感情に観客ものりやすい。
でもおさがは基本的に静かだ。
たった一度の恋に命を燃やしつくす役なんだけど、ベースに信仰心があるためか、どうしても基調が穏やかで清浄だ。
役の清浄さというのはもちろんそれ自体「善」に属するものなんだろうけれど、人間の汚れた部分や悲しい部分こそが観客を引きつけ魅了するものでもある。
そういう意味で、おさがは観客を魅了しづらい。
それでなお、観客を魅了しようとするなら、もう圧倒してしまうしかないだろう。
力でもってねじ伏せる。
歌なり、芝居なり、そのたたずまいなりで。
おさがという役として白く発光して、劇場空間を充たしてしまうのが一番早いと思う。無茶言ってる気もするけど。
さて、芝居とは無関係にちょっと気になってること。
みりおんはもうすぐ宙にお嫁入りなわけですがー、愛称はこのまま「みりおん」でいくのでしょうか。
というのも、トップコンビって2人の愛称を並べて略されますよね。
「蘭蘭」「まさちゃぴ」「ゆひすみ」みたいに。
その場合、次期宙1コンビは「テルみり」呼びなのかなぁと気になるわけです。
でも「みり」だと月のみりおとごっちゃになりそうだから、本名由来の「くみ」あたりに戻すのかなぁ。
宙に行けば上級生とかぶることもないから使えるし(花時代はくまくまちゃんとかぶるからたぶん使えなかったんだよね)。
私が考えても仕方ないんですが、はい、ふと気になったんです。
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