無名抄より

自分語り

『方丈記』で有名な鴨長明の『無名抄』を読みましたよ。

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歌論書なので宝塚とは直接関係はないのですが、芸術という意味でいろいろと考えさせられるものがあります。

たとえばこんなところ。

「のさびなるところをばただ世の常にいひ流すべきを、いたく案じすぐしつれば、かへりて耳とまる節となるなり。たとへば、糸をよる人の、いたくけうらによらむとよりすぐしつれば、節となるがごとし。これをよく計らふを上手といふべし。」

(ゆったりとした箇所をただ世間一般のように言い流すべきなのに、ひどく考え過ぎるとかえって耳障りな箇所となるのだ。たとえば糸を縒る人がひどく清らかに縒ろうとして縒りすぎると、そこが節となるようなものだ。これをうまく按配する人を上手というべきである。)

あるいはこんなところも。

「白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花ざかりかも

これこそはよき歌の本とは覚え侍れ。させる秀句もなく、飾れる言葉もなけれど、姿うるはしく、清げにいひくだして、たけ高くとほしろきなり。たとへば、白き色のことなるにほひもなけれど、もろもろの色にすぐれたるがごとし。よろづのこと、極まりてかしこきは淡くはすさまじきなり。」

(白雲と見えるのではっきりわかる。吉野の山は花盛りなのだなあ

これこそはよい歌の手本と思われます。これといった気の利いた句もなく、美しく飾った言葉もないけれど、姿は端正で、きれいで真直に表現していて、格調も高く、壮大である。たとえば、白い色は格別の色彩もないけれど、多くの色よりも勝れているようなものだ。すべての物事で、極限まで達して勝れている状態は淡白でおもしろみはないものなのである。)

歌もダンスも芝居も、これに通じるものがあるのではないでしょうか。

とはいえ、私はコッテコテでやりすぎのきらいがあるくらいなものが好きだし、端正で上質なものをそれと見わける力がないのですが、良いものを良いと判断できる目は欲しいものです。

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