『白き薔薇の抄』

かねて読みたかった『白き薔薇の抄』をようやく読みましたよ。

「白薔薇の君」と呼ばれた春日野八千代様の半生を記したエッセイです。
春日野様といえば、『宝塚110年の恋のうた』のずんちゃん演じる「八千代」のモデルですね。

昭和62年12月発行。
発行元は宝塚歌劇団。
元は日経新聞の「私の履歴書」の連載のはずで、それに多くの写真や田辺聖子のエッセイなどが足されています。

宝塚歌劇の歴史を知る上での一級資料です。
ものすごく面白かった。

春日野様のこと

初舞台は昭和4年、尋常小学校を卒業して宝塚音楽歌劇学校(一年制)に入ったので、入団は13才くらいです。
昔はそんなもんだったんですよね――って、もちろん私が生まれるはるか昔のことですが。

勉強が嫌で宝塚に入った、となにかで語っておられた記憶があるんですが、小学校では級長をつとめるなど優秀だったようです。
宝塚に入らなければ学校の先生になるべく進学していたはず。

受験の話

春日野様が音校受験をした年は受験生が多く、700名近くいたらしいです。
試験科目は簡単な足し算とダンス、歌。
ただしダンスは「足を上げてみなさい」という程度。今とはかなり違いますね。
合格者は51名、倍率14倍。

入学後は女学校中退、卒業の「甲組」、小学校出の「乙組」に分かれる。春日野様は「乙組」です。

三つ編みにして巾広のリボンを結び、銘仙以下の着物に緑の袴、履物は後丸のこっぽりが生徒の服装。
洋服は許されていなかった。

宝塚音楽歌劇学校では、ダンスは白系ロシア人の先生に習ったそうです。
この「白系ロシア人」という響きよ……! 時代を感じるわ。

「生徒」の理由

宝塚の生徒が「俳優」ではなく「生徒」なのは一三翁の発案。
当時は俳優業が免許制で鑑札が必要だったが、鑑札を受けなくてもよいように「生徒」としたようです。
さすが商売人、目端が利く。

ただし、カツラをかぶると役者の扱いになるので、鑑札のない宝塚の生徒は日本髪などをすべて地毛で結った。
苦肉の策として、前の部分は地毛、真ん中からカツラになる「半ガツラ」が考案された。

衣装のこと

西洋の男性になるために少しでも足を長く見せたいので次のような工夫をしたと書かれています。

・靴のかかとを高くしてみる
・かかとを隠すためにズボンのすそを後ろだけ長めに仕立ててもらう
・中央は細く縫い込むように注文をつける

これらはモーニングカットといってひろく世間に流行したそうです。
というか、今の宝塚の男役の衣装にもつながりますね。

娘役として入団した者の、男役志望のためいかり肩になるように、腕をぐるぐる回す運動をして、衣紋かけみたいとからかわれるほどになったそうで。
しかし肩が薄くて形が整わないので、肩パッドなしの背広をつくってもらった。
日本物で男役をするときには、肩綿をそでにまで薄く入れた楽屋じゅばんを衣装の下につけた。

早替わりが増えて大道具ほかの男性がウロウロしている舞台裏で衣装替えをしなければいけないが下着ひとつにもなれないので、「踊りズボン」というズボン下を考案した。
これは宝塚ではない外部の舞台にも広まった。

また、男役で最初にパーマをかけたのは春日野様。
(しかし思うようにはいかなかったっぽい)

未婚の女性の劇団

宝塚といえば「未婚の女性の劇団」として有名ですが、そのころの宝塚には一度結婚して、事情があって戻った人もいたと書かれていました。
この処遇は「若い女性を不幸にしてはいけない」という一三翁のお気持ちかららしい。
だから宝塚歌劇団が「未婚の女性」だけで結成されているのは事実だけれど、過去にはそうでないこともあったわけだ。
ごく限られた時期には男性団員もいたしね。

組のこと

かつてあった「ダンス専科」は『パリゼット』のために作られた。
『パリゼット』で本格的なタップダンスが日本に紹介された。
手や足に塗るおしろいも白塗りをやめて地の色を見せるようになった。

春日野様が月組⇒ダンス専科⇒月組と戻ったのは、ダンスが好きでも生来虚弱なため理事長に「もとの月組に戻してほしい」と願い出たから。
けっこう融通がきいたのかな。

一三翁が亡くなられた後「春日野を売り出すために星組をつくれ、といわれたのだよ」と人から聞いたらしい。

労働環境

当時の休みは月に2日だけ。
3本立て、4本立ての公演を毎日こなしながら、楽屋で翌月の舞台のセリフを覚え、公演終了後の夕方か夜に稽古が始まり、午前3時、4時まで続くことも珍しくなかった。

別の本で、当時のタカラジェンヌがよく病気になっていたり亡くなったりというのが出ていたが、さもありなんという労働環境である。

春日野様も不眠症になったと書かれている。

銀橋ならぬ金橋

かつて「金橋」というものが宝塚の舞台にありました。

舞台の額縁に沿って通路がついていて、上に立つと三階席の前列あたりと同じ高さになる。
ここで寸劇めいた芝居もしたが、いつのまにかなくなった。

高所恐怖症の人には大変だったことでしょう。

アメリカの海外公演

昭和14年、アメリカ公演に行った。
サンフランシスコの劇場では案内係のおばさんに「女性ばかりの劇団といってるのに、男が二人いる」。
男性と間違われたこの二人は春日野様と佐保美代子さん。

西海岸の公演は大成功で黒字が出たから、団長の吉岡重三郎先生が「ごほうびに時計を買ってやろうか、予定外のニューヨーク公演をしようか」。
生徒はニューヨーク公演を選んだが、ニューヨーク公演は宣伝不足と反日感情の強まりもあって赤字。

宝塚大劇場閉鎖

雪組『桜井の駅』『勧進帳』『翼の決戦』の三本立てを上演中、19年3月1日に、幕を開けて5日目に閉鎖のニュースを聞く。

東京宝塚劇場は2日の初日を前に、舞台稽古をしただけで閉鎖。
宝塚大劇場は4日限りとなったが、2日は休演が決まっていたので残るは3月3日と3月4日のみ。
観客の列は切符売り場から延々と続いて宝塚新橋を渡り、武庫川の向こう岸の宝塚南口駅までつながっていた。

「これが最後なんてことがあるものか。幕はもう一度上がる。そう信じていたから……。」

光源氏

戦前は『源氏物語』はタブーだったが(だって天皇の后に手を出すし不義の子は産ませるし)戦後はOKになった。

光源氏を演じることになった春日野様は、毎日、衣装にシャネルの五番をふりかけて出た。
シャネルの五番を選んだのは、これが一番お香のかおりに近かったから。
10枚近くある衣装のひとつひとつにたっぷりふりかけてでるので、客席の後方までにおい、日がたつほどに評判になった。
しかし楽屋ではクサイ、クサイと敬遠されたらしい(笑)。

菊田一夫氏のこと

「恋多きことで有名な先生のこと、けいこ場でも次々とだれかを好きになってしまい、それが私たちにも手にとるようによく分かるのだった」
き、菊田センセイ……!

ラブシーンについて「あれは自分がヨッちゃん(春日野様)になったつもりで、相手役に愛を打ち明けてるのよ。あんたとは似ても似つかないのにねえ」と菊田先生の奥様に言われたそうで。
奥様もよくわかってらっしゃる。
というか、昔はこのあたり(夫の女性関係)を飲み込んでおくのが正妻のたしなみみたいな感じ、あったよねぇ。

「ごひいきの人をひきたてるため、私のセリフがバサバサと削られたことがあって、このときばかりは腹に据えかねた。」

公私混同がすごい。
ていうか、さすが昭和だわ……。

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