集英社から出ている、小竹哲さん著の『宝塚少女歌劇、はじまりの夢』を読みましたよ。
現在の宝塚歌劇団の元である「宝塚少女歌劇」の興りのころの研究書です。
『歌劇』などを元に研究されているのですが、今のきちんとした宝塚を思うと、ずいぶんと……粗雑にもいい加減にも見える初期の宝塚の姿が明らかになります。
宝塚が、あらゆる混乱の中で生まれ育ってきたとわかります。
これまで信じてきたこととも違う部分もあり、驚かされること頻りでした。
花組と月組の誕生
大正2年に始まった宝塚少女歌劇は、人が入らない時期もあったものの、数年後には人気となっていました。
チケット争奪戦に、あの手この手で劇場に入ろうとする人もいて、客席は危険なほどに。
大正10年、度を超えた混雑を解消するために<一部>芸術的な少女歌劇と<二部>旧来のお伽歌劇(子供向け)を上演しようとしました。
高度で芸術的なものを求める声と、従来のお伽気分を求める声とのせめぎあいもあったよう。
しかし大半の観客が<一部>に流れて満員となり、失敗に終わりました。
そこで内容で分ける二部制はやめ、<一部>を花組、<二部>を月組と改称し、大正11年より月組・花組交代で年間8公演を実施することにした、というのが花組と月組の誕生のようです。
とはいえ、元は「雪月花」、つまり最初は雪組と月組を作り、その後に花組をという構想だったようなのに、なぜ花組が筆頭のようになったのかは謎です。
当時の花組評と月組評も出ていました。
「花組はどこ迄も広く浅く平面的で、新開拓の広野に思う儘振舞ふ。月組はどこ迄も狭く深く立体的で、過去の懐かしい宝塚ムードと云ふ独特の情緒を有している。」。
「新聞にたとへると、月組は大阪毎日なれば、花組は大阪朝日だ。後者は馬鹿人気はあるが、絶えずゴツゴツしてゐるに反し、前者はワイワイ人気はないが、如何にもナチュラルで気持ちがよい。」
「月組には調和がある。花組には折角多くのスターが居ながら、その歩調がバラバラである。」
華やかでスター性に富む花組に対し、堅実な月組といったところでしょうか。
どことなく、今に通じるものがあるような。
生徒の結婚
高砂松子という、当時の人気生徒がおられました。
神代錦の姉君でもあられた方です。
高砂さんは下級生のころはおっちょこちょいでお転婆で可愛らしいと人気の半面、不真面目でもあったそうで、セリフに詰まって笑ってしまい楽屋に引っ込んだこともあったよう。
(もっとも当時は、生徒も適当にふざけてやってたふしもある)
高砂さんは珠玉を転がすような美声で特に日本の俗謡が巧み、自在な演技力を持つお方だったそう。
大正12年、高砂松子結婚。
今なら結婚=退団が不文律だけど(あくまで不文律)、当時はまだそこまではっきりと決まってはいない。
高砂さんご本人は退団する気だったが、劇団から慰留されて宝塚に残ることになった。
当時は結婚後も生徒でいられたんですね。
小林一三翁としても、せっかく育った人気生徒をむざむざ退団させるのが惜しかったようです。
ただ、ファンは生徒の結婚に賛否両論。というか、むしろ「否」のほうが多かったのかもしれません。
『歌劇』にもファンから引退勧告する投稿がされました。
それだけが理由でもありますまいが、大正15年に高砂さんは引退されました。
結婚した生徒が宝塚の舞台に立つとなれば「少女歌劇」ではないかもしれない。
けれど、逸翁には大人になった女子生徒と、(立ち消えになった)男子生徒を同じ舞台に立たせるという構想もあったようで。
男子生徒もファンからの賛否の「否」の部分が多かったようなので、女生徒の結婚退団と男子不加入は地続きなのかもしれません。
早逝する生徒
今では現役で若くして亡くなるタカラジェンヌをおよそ知りませんが――。
労働事情も衛生環境も悪かった大正時代。
宝塚の生徒は、給料はよかったが休みが少なかったようです。
一度公演が始まると1ヶ月も2ヶ月も休みがない過重労働は今よりもシビア。
スペイン風邪(インフルエンザ)などの病気で早逝する生徒も少なくなかったようで(若くは10代で亡くなっていた)、何名かお名前が挙がっていました。
亡くなりはしなくてもパラチフス、肋膜炎などで休演し長期療養する生徒も。
今も宝塚は大変だと思いますが、夢の世界の裏はほんとうに過酷だったようです。
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