雪全ツ『琥珀色の雨にぬれて』感想・2
『琥珀色の雨にぬれて』という作品についてずっと考えています。
この作品の初演は1984年。
33年前です。
この当時の恋愛観は今とはいささか違ったものだったような気がします。女に求められるものが多かったような印象です。
――女は男の弱さを許さなきゃいけない、ダメな男でも支えてこそ立派な女。
断罪するのは見苦しいこと、生意気なこと。
演歌的な恋愛観がまだまだはびこっていたような気がします。
(と言っても当時は私はピヨピヨしてた頃なので、これが妥当かどうかはわからないのですが)
私がクロードにイラっとしたのは、断罪できる風潮にあるという現代の時代性にもよるのかなと。
仮に初演当時に観劇したとすれば、なにか引っかかりがあったとしてもそれを心中で打ち消して終わらせていたのかもしれません。
プログラムに柴田先生のインタビューが載っています。
主人公を「戦争を潜り抜けてなお純粋さを失わない貴族的なクロード」と表現しているところから、柴田先生はクロードをダメ男として描いていないことが窺がわれます。むしろ魅力的な人物として造形しているように読めます。
元の設定はどうあれ、現代の視点ではそうは見えないというのが困ったところというか、面白いところというか。
演じただいもんの視点も、もしかしたら私と同じ方向性なのかなと思いましたがどうでしょうか。
まなはる演じるフランソワーズの兄にしてクロードの親友であるミッシェルが「俺はさばけた男だから、いつか妹の元に戻ってきてくれ」みたいなことを言うところもいかがなものかと。
たぶん男の友情なんだろうけど、頼むから許すのはクロードを殴ってからにしてくれないかな。
でなきゃフランソワーズが辛すぎる。
想像だけど、昔ならこの友情の形はアリだった気がします。というか、こういうのを女も認容しなきゃいけなかったのかな、と。
(でないと度量がないとなじられる)
主人公の総愛され体質が昔の作品のデフォだったんだろうなという気もします。
シャロンは身を引いたのであって見限ったわけではないし、フランソワーズは裏切られても主人公を追い続けるし、ミッシェルは甘々だし。
私にはクロードの悲劇は身から出た錆にしか見えないけど、それでも観客は「クロードかわいそう」という気持ちで観るのが「正解」で、そういう共感される主人公だからこそ他の登場人物も悪役以外は主人公を愛し、甘やかすのではないかと。
美しい作品だけど、そのあたりの感覚は古めかしく感じました。
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