『近松・恋の道行』感想・6

みわっちバウ『近松・恋の道行』を観てから約1週間が経ちました。

作品は面白かったんですが感想がちゃんと書けない。
というのも、話のキーになりそうな気になるポイントはいくつもあるんだけど、それをどう捉えればいいのかわからないんです。
うまく解釈できなくてもやもやします。

わかんないなりに書いてしまわないとすっきりしないので、自分のために書いておくことにします。
結論は出ないです。
ていうか、どなたか解釈してください……。

ネタバレが入るので、以下ご注意。


●嘉平次とおさがにも「人形浄瑠璃」的な場面がいくつかある。

特に嘉平次の姉・ふさ(さあや)にさががなじられるところから道行への決意を示す場面。
正しい言い回しは忘れたけれど、さがが「穢れたる身なれど、心には一寸の曇りもなきものを。いかにして真の心を見せようぞ」と、女郎の身ではあるが心底嘉平次を愛しているのだとふさに言い放つ。

そして嘉平次には「さがにはこのかっぱはうっとおしい。――」云々と、嘉平次のために駕籠の覆いを間接的に渡す。

いずれも言い回しが浄瑠璃風。
現代の演劇ではない。

景子センセイがどのような意図であえて浄瑠璃風の場面を設けたのか、たとえば登場人物の心情との関係はどうなのか。
そのあたりが気になった。

「ここぞ見せ場!」と思うところを古典的な色合いで表現したのかなー。

●道行の前に一つ屋の出店で嘉平次とさがが逢う。
これは清水焼、これは何々――、と茶碗をみる2人。
よく覚えたなという嘉平次に「さがは茶碗屋の女房です」と言う。

ここで繰り広げられるのは、一種のままごと。ごっこ遊び。
心の中では夫婦であっても、世間的にはままならない、これから死ににゆく身の2人なのだから。

ままごとは、子供たちの中でも繰り広げられている。

はじめは「うなぎ食べたい」「父ちゃんの稼ぎが少ないから食べられんのや」と、現実的ながらも温かみのあるままごと。

それが最後には「ままごと飽きた」「じゃあどうする」「心中ごっこしよ」となる。

嘉平次・おさがのままごとは子供たちのままごとと対比されるべきものなのかな、という気はする。
だけど、どういう位相にあるのか落ち着きどころがわからんです。

●子供たちの心中ごっこ同様、当事者には命がけの事件も大人たちにとっては自分たちの生活を彩るスパイスでしかない。

「赤穂浪士の討ち入りはすっきりしたなぁ」
またああいう面白いことないかな、と。

冷めて乾いて、非常に軽いのである。
そしてそれをみる近松の目線も含めたこの皮肉な視線が、今回のこの芝居の新味のあるところなのだろう。

さて、世の人に “笑われる” 心中と赤穂浪士事件。
これも対置されてるのかな、とは思う。

伝統的な心中――曽根崎心中の流れをくむ嘉平次とおさがの物語と、赤穂浪士事件に発端をもつ清吉と小弁の物語も対置する。
であるがゆえに、片や生き、片や死をとげるというのもわかるんだけど、なんとなく「ああそうですか」という感じだ。
物語の枠組が見えるのがかえってすっきりしないのかもしれない。

●小弁と清吉の心中が未遂に終わり、命をとりとめた小弁に柏屋の遣り手・お香が言う。
一生懸命生きて生きぬいてみろ、と。

お香もかつて身請けされる話があったが、ある事件をきっかけにその話を断り、現在は遣り手として生きている。
その話を知りたがる小弁に「お初の死に顔が忘れられない」と語る。

お香は、曽根崎心中の当事者であるお初と同じ店で女郎をしていた。
心中事件が起き、愛する男とともに亡くなったお初の顔が幸せそうで、本当に生きるとはどういうことかを考えたお香は身請けを断り愛する男を待つことに決めた(結局は捨てられたが)。

――心中をはかって命を取りとめた相手に、心中して死んで幸せになった女郎の話をするってどうなのさ。
しかも小弁には「生きよ」といいながら。

お香にとって、お初と徳兵衛は生きて生きて生き抜いた末に選んだ心中で、小弁と清吉は辛さから逃れるための「ねんねのたわごと」。
その差なんだろうなぁとは思うんだけど、「それがわかる相手ばかりじゃありませんぜ」とお香さんにはツッコミたくなる。

0

にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 宝塚歌劇団へ
にほんブログ村


宝塚歌劇団ランキング

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。